【Old Story】少し前の話をしようか

2018年2月26日

【Old Story】少し前の話をしようか

 

サンシーロでACミラン相手に6対1

 

 

この試合は1996-97シーズンだからもう20年以上も前に遡る。

 

でもボクの記憶はここで止まっている。いや止まっているのではなく「いつでも巻き戻せる」と言う表現が正しいのかもしれない。ユーゴビッチが決めた2ゴールも、ビエリがバレージを振り切ったシーンも、それこそシモーネに決められたビューティフルゴールさえも全て覚えている。たしか途中で頭にきたミラニスタが発煙筒を投げ込んで一瞬試合が中断したんだっけ。あれは、ボクにとって史上最高の試合だったし、ユベントスと言うチームにとっても歴代最高の試合のひとつであると信じている。

 

 

知っている方も多いと思うが、僕は1995-96シーズンからユベントスの応援を始めて、2008-09シーズンくらいまでコンスタントに試合を見ていた。そしてその後少し離れて今シーズンからユベントスの試合を見ている。だから間に7〜8年くらいのブランクがあって、昔話となるとそれこそ15年とか20年位前の話になってしまう。ただ、さすがに月ユベでそのネタを前面に出すことは、私が離れていた間にユベンティーノになった方々に失礼にあたるのであまり記事にしないが、Twitterで話題にすることはある。すると、そこに喰いついてくれる方のいることいること(笑)。そしてボクはふと思った。昔から知っている方には”思い出のより所”として、そしてその時代を知らない方には”昔のユベントスを知ってもらう機会”として、何か記事にしたら面白いんじゃないか、と。

それこそボクが20代の頃の話になるからひと昔、いやふた昔前の話になるけど、もし時間が許すならば少しだけタイムスリップに付き合って欲しい。

 

ボクのOld Storyを聞いてくれ。

 

 

 

ボクのアイドル

ボクの永遠のアイドルはユーゴビッチだ。

ロベルト・バッジョでもなくデル・ピエーロでもなくジダンでもなくユーゴビッチだ。ユーべに在籍したのは1995-97のわずか2シーズンだったが、ボクの心を奪うには十分すぎる時間だった。その巧みなテクニックにどのポジションでもこなせるユーティリティ性。今も昔もユーゴビッチを超えるプレーヤーは出てきていないと思っている。ジダンだってメッシだってクリスティアーノ・ロナウドだって、ボクにしてみれば2番手以降の選手なのだ。

1996-97シーズン。ボルドーから加入したジダンはユベントスでの活躍により、「ボルドーのジダン」から「世界のジダン」になった。それくらいジダンのプレーは輝いていた。ただ、その傍らにいつもいたのはユーゴビッチであり、ジダンがトップ下で自由にプレーする為に生じるリスクを全て背負い、そして全てを消化した。ユーゴビッチがいたからこそジダンは自由にプレーでき、ユーゴビッチのスキル(戦術理解度も含む)が高いからこそ相手もジダンだけに集中する訳には行かなかった。ちなみにボクはいまだにユーゴビッチの本職がどこだか知らない。いや知る必要がないのだ。中盤である事は間違いないが、サイドでもボランチでもトップ下でもあれだけ高パフォーマンスを見せられればポジションなんか関係がない。ユーゴビッチの「本職」の話をすること自体がナンセンスなのだ。

そしてユーゴビッチに関してはこんな逸話が残されている。1996-97シーズン終了後、ユベントスはフロント主導でユーゴビッチ、ビエリ、ボクシッチの主力3選手を放出したが、ユーゴビッチに関してだけはリッピが激怒した。後にリッピがインテルの監督に就任した際にユーゴビッチを呼び戻したことからも分かる通り、名将リッピにしてもユーゴビッチは替えの利かない選手だったのだ。その話はユーゴビッチの価値を示す物語として、ボクはずっと覚えている。

 

 

唯一無二のファンタジスタ

観客を魅了する事のできる選手はいるしスーパースターもいる。でも「ファンタジスタは誰?」と聞かれればこう返さぜるを得ない。

 

デル・ピエーロ以外に誰がいるんだ?と。

 

 

デル・ピエーロがユベントスに加入したのは1993-94シーズン。当初はロベルト・バッジョがユベントスでもイタリア代表でも背番号10を背負い、デル・ピエーロはポスト・バッジョ候補でありまだ場所は確立されていなかった。しかしデル・ピエーロに転機が訪れたのは1994-95シーズン終了後。ユベントスはロベルト・バッジョをACミランに放出したのだ。これによりデル・ピエーロはユベントスで背番号10を背負い(確かこのシーズンから背番号が固定になったと覚えているが)、ユベントスの象徴的な選手となった。そこから2シーズンかけ、デル・ピエーロは急成長を遂げてユベントスでの地位を築いていった。そして迎えた1997-98シーズン、デル・ピエーロはファンタジスタとなった。相手にドリブルで仕掛ける姿勢、抜きんでたスキル、そして何といっても左45度デル・ピエーロ・ゾーンからのゴール。全てで彼は特別だった。このシーズンはインテルと最後まで優勝を争い、そしてインテルには怪物ロナウドがいて、それがまた舞台を華やかにした。今で言えばメッシとクリスティアーノ・ロナウドの関係だろうか。最後の最後までチームは優勝争いを演じ、シーズン終盤の直接対決では歴史に残る死闘を繰り広げた。そしてこのシーズン、ユベントスはスクデットを獲得し、デル・ピエーロは名実ともにスターに、そしてイタリアを代表する選手となった。

あれから時間が経過し、デル・ピエーロはオーストラリア~インドに渡りそして引退した。ボクは今でも悔やんでも悔やみきれない。その時間にサッカーを見ていなかった事を。その為にデル・ピエーロに「お疲れさまでした」と言えなかった事を。叶うか分からないが、ボクはいまこう願っている。いつかデル・ピエーロがユベントスに戻り、ボクの唯一のファンタジスタに”お帰りなさい”と声を掛けたい、と。

 

 

マルチェロ・リッピと言う名将

ボクがユベンティーノになった時、監督はリッピだった。その時のユベントスは勝負強く、負ける試合を引き分け、引き分ける試合を勝ちに持ち込んだ。そしてそのチームを指揮していたのがリッピだ。古いファンの間では「葉巻」の愛称で親しまれているように、試合中に葉巻を吸っていたと覚えているが(本当に吸っていたかは忘れたが)、その一本筋が通った姿がボクに安心感を与えてくれたし、どんな試合でもリッピがいれば勝てると思っていた。それだけにチャンピオンズリーグ決勝でドルトムントに完敗した時はショックだったし、ユベントスでも負ける事があるんだ、と思った事を今でも覚えている。それくらい、リッピはユーべを勝たせてくれた。

いまでは中国代表の監督を務めており、日本代表との国際試合ではその姿を見る事も出来るのはボクにとって小さな喜びである。もうすぐ70歳になりもうユベントスには戻ってくることはないかもしれない。それでもボクの中ではユベントス最高の監督だ。

 

 

雨のレナトクーリ

1999-2000シーズン、最終節で対戦した相手は残留も決まっていた格下のペールジャ。会場となったペルージャのホームであるレナトクーリには試合開始前から大粒の雨が降り続いていた。「引き分けで優勝」の条件だったものの、0対1で敗れてラツィオに逆転優勝を許した。この日、ボクは新婚旅行でイタリアに向かっており、残念ながらフライトの関係で試合は見れなかったが、空港からの移動のタクシーの中で運転手に、「Juventus lose」の言葉を聞いて愕然とした事を覚えている。

いまでは新婚旅行の良い思い出だ。

 

 

カルチョ・スキャンダル

2005-06シーズン終了後、突如ユベントスの八百長が発覚してセリエBに降格する事になった。月ユベでは冗談で八百長と言っていた事はあったが、まさか現実になるとは思わなかった。ただ、今でも覚えているのはそれほどショックでもなかった、と言う事。月ユベ的にはおいしい、と言う計算はあったかもしれないが(笑)、その時に改めてボクにとってユベントスが戦う舞台はそれほど重要ではない事に気付いた。

そしてセリエB降格が決まると、ファビオ・カペッロ、イブラヒモビッチ、カンナバーロ、ザンブロッタと言った監督・選手がチームを後にしたが、それ以上に主力と言う主力がチームに残ってくれた。デル・ピエーロ、ネドヴェド、ブッフォンなど、当時は現役バリバリの選手たちだ。そしてセリエBで迎えた2006-07シーズンはカルチョスキャンダルの制裁により「勝ち点マイナス9」でスタートしたものの、見事優勝を飾り1シーズンでセリエA復帰を成し遂げた。

ちなみに、そのシーズンの監督を務めてくれたデシャン監督、そしてセリエBでの試合を放映してくれたスカパーには今でも感謝している(セリエB初放映の試合のDVDが残っているので、いつか毒者プレゼントしたいと思っている)。

20年に1度くらいはセリエBを味わうのも刺激があっていいかもしれないな(笑)

 

 

わずか3人のゴールキーパー

ボクがユベントスを見るようになってから、正ゴールキーパはわずか3人。アンジェロ・ペルッツィ、エドウィン・ファン・デル・サール、そしてジャン・ルイジ・ブッフォン。

中でもやはりブッフォンはボクにとって特別な存在だ。1995-96シーズン、当時最強を誇っていたACミラン相手に17歳で鮮烈なデビューを飾り、パルマで十分な実績を残して2001-02シーズンからユベントスに加入した。ユベントスでも安定したパフォーマンスを見せつけた事により移籍の噂もあったし、それこそ今の時代で17年も同じチームでプレーするなんて奇跡に近い。しかし、ブッフォンはずっとユベントスにいて、ずっとユベンティーノの心を掴んでいる。今シーズンはブッフォンにとって現役最後のシーズンになるかもしれない。残念ながらワールドカップ優勝の花道は途切れてしまったが、まだチャンピオンズリーグが残っている。ブッフォンの為に何としても優勝して欲しいと願っている。

 

「康介さんを手ぶらで帰らせるわけにはいかなかった」

これは2012年ロンドンオリンピックで、水泳個人種目でメダルを獲れていなかった北島康介の事を思い、400mメドレーで銀メダルを獲得した直後に後輩の松田丈志選手が発した言葉だ。

 

 

いまボクは同じような思いを抱いている。

 

「今シーズン、ブッフォンをノータイトルで引退させるわけにはいかない」

 

 

この思いがイタリアに届くと信じている。

 

 

 

個性的なメンバー

ユベントスは間違いなくビッグクラブだ。だけど、これだけ個性的な選手を抱えているビッグクラブも珍しいと思う(月ユベが個性的に仕上げていると言う話でもあるが)。昔の選手名鑑を見ながら、何人かの選手を取り上げて思い出にふけってみたいと思う。

 

パオロ・モンテーロ

いまだにセリエAの退場記録を保持しているのだろうか。もちろん退場数を誇るつもりはないのだが、本当にバラエティに富んでいて、思い出すと微笑ましいものばかりなのだ。相手ゴールキーパーに飛び掛かったり、バレはしなかったが相手選手に右フックを喰らわせたり、反則行為ではないがグランドで嘔吐したり、ピッチサイドで短パンを履き替える為にパンツ姿になったり、とにかくその行為が規格外な選手なのである。そして、それにも増してディフェンダーとしての能力は世界有数だったのがモンテーロの凄いとろだ。いまだにユベントスで背番号4を背負っている選手を見るとモンテーロを思い出す。大好きだった選手だ。

 

マルセロ・サライエタ

この選手も1997-2007シーズンと長くユベントスに在籍し、セリエBで時間を共にした戦友だ。主に途中出場やカップ戦でプレーする機会が多かったが、その中でも「ユベントスにとっては消化試合だけど、相手にとっては重要な一戦」でゴール決めるものだから、相手にとってはたまったものではないし、それ故にユベンティーノからは支持された。いつのシーズンだったか忘れたが、そのようなシチュエーションの試合で、右サイドバックのビリンデッリのクロスからビューティフルゴールを決めてバルセロナを沈めた試合は語り草だ。

 

ジャンルカ・ペソット

ユーゴビッチほどではないが、サイドであれば右も左もディフェンスも中盤もそつなくこなし、ユーべの屋台骨を支えた選手。1998年フランスワールドカップベスト8では同僚だったジダンのマンマークを任されたが、後にも先にもプロの大舞台であれだけ露骨なマンマークをした選手はペソット以外に見た事がない。ユベントスで「ユーティリティ選手」と言えばペソットも思い出す。

 

アンジェロ・ディ・リービオ

1993-1999シーズンまでユベントスに在籍し、黄金時代の一翼を担った。取り立ててテクニックがある訳ではないがサイドを主戦場とし、絶えず前後運動を繰り返しチームに活力を与える選手であった。どの試合だったかは忘れたが、あまりに運動量が多すぎて試合終盤に両足が痙攣して抱きかかえられながら退場した姿が忘れられない。ファンからはソルダティーノ(小さな戦士)と言われ愛された選手だ。

 

 

 

そして2017-18シーズン

その後、ユベントスとは離れた場所で多くの時間を経過したが、ボクはまたユベントスに戻ってきた。ユーゴビッチもデル・ピエーロもモンテーロもいないけど、当時は新人だったマルキージオがいてキエッリーニがいてそしてブッフォンがキャプテンマークを巻いている。あの頃のメンバーはほとんどいなくなったけど、それでもこのメンバーが残っていてくれたことは、ボクに安心感を与えてくれた。そして開幕戦ではほとんど名前と顔が一致しなかったメンバーたちも、いまではボクの中の一員となり、ボクもまたユベンティーノの一員となった。

 

ユベントスから離れていた7年~8年を取り戻すこともできないし、悔やむこともない。だけど、今ここにいるのは、間違いなくあの頃のボクがいたからだ。だからこの時の思い出も大切にして行きたいと思う。

 

 

 

2017-18シーズン、2度目のユベンティーノ復帰

 

 

少し古い話に誓い、3度目がない事をここに約束したいと思う。

 

 

 

※長文をお読みいただき有難うございました。次回からは通常スタンスで記事を書きます。